私淑するということ

SNS時代にあっては,知己の相手との交流とともに,一方的に有名人の発言をリアルタイプにフォローできるようになった。ただ,知己の相手のように双方向性が強く残るものと異なって,このような一方的なフォローは,それなりのリテラシーを要求されるように思う。

そもそも,フォローすることは,一方的な行為であって,本を読むことに似ている。しかし,それをもって交流ではないというのは早計だろう。
例えば,このような話を聞かされた人は多いのではないのだろうか。
「もし,あなたに友達がいないのならば,本を読みなさい。過去の賢人があなたの友達となってくれるだろう。」
書籍を読むことは,その著者やその登場人物と交流することになり,読者の人生を彩ることは,しばしば指摘されるところである。フォローすることによって,そのような(一方的な)交流が生まれ,自己の人生に厚みを増すこともあるであろう。
特に,実際に師匠を得ること(それは,人生にとって特に幸せなことであると私は思っている。)ができない場合に,書物上の偉人を敬愛し,その著書や伝記を読むことで自己の師匠とすること,即ち「私淑する」ことは,しばしば人生のキーであるとすらいわれる。それが故に,しばしば成功者のインタビューにおいて,私淑する人について,その言葉を引用して語られる。

この点について,生きている限り変化があり,反応もある生身の人間に対し,書物は固定的で一方的に話しかけるものであり,同一に論じられないという疑問もある。
しかし,書物に書かれていることが同じであっても,つきあう友達が自分の変化によって異なる面をみせるするように,自己の変化によって得られるものも変化する。
私事で恐縮ではあるが,青年と言っても恥ずかしくない年代において,私は,中島敦の山月記(虎人伝)にひどく感動したものだった。しかし,今となっては,その文章の美しさに感動することはあっても,どうにもナルシスティックな匂いが気になるようになってしまった。それは,決して作品の問題でも,自分の進化というものではなく,自己の価値観の変化や諦めによるものだと思われる。いづれにせよ書物は主観的には変化する面は否めない。
かえって,生身の人間も,思うほど変化のあるものではない。むしろ,変化がない(もしくは,変化があるほど深く入り込まない。)ことに安心するから付き合うこともあるだろう。

さらに誤解をおそれず言えば,反応を返してくれる友人といっても,たかだか会って酒を酌み交わす程度の付き合いであれば,殆ど自分に影響など与えるものでもない。そのような「トモダチ」とは,言葉の表面上はいろいろ会話はしても,実のところ,いようがいまいが関係ない存在にすぎない。
これに対し,鬼籍に入って久しい人であって,墓石に語りかけても何も反応を示さない人間であっても,ふとした瞬間にその人物の存在を思い出し,襟を正すのであれば,生きている人間よりもよほど影響力がある。ならば,おそらく話しかけても反応のない書物であっても,私淑することにより,あまり身の入っていない弟子よりも多くのことを学べることもありうるのではないか。
少くとも,私にとっては鬼籍に入った友人は,夜な夜な自分に語りかけ,うなされる存在である。それが故に,私は,彼の生前よりももっと深く,彼の生前の言葉に影響され,そこに深く交流させられることとなった。

ただ,両者にはひとつ明確な違いがある。即ち,生身の人間に対して真摯な態度で臨まなければ,相手にされない。しかるに,書物は真摯に読み,人生の指針として実践するようでなければ,自家薬籠中のものとすることはできないものの,拒絶はされない。
これは恐ろしいことだ。本来,私淑するということは,実は,先人から何かを引き出すことではなく,自分を先人の言葉に恥じぬ存在に高めることに意味があろう。にもかかわらず,「私淑する」といいながら,虎の威を借る狐のごとく先人の言葉を自己の都合のよいように利用するとき,人は嗤うことはあっても正してはくれない。

これはSNS時代には,さらに進化する。SNSは人間関係を飛躍的に広める意味もあるが,一方で,悪評も自らの行動で飛躍的に広める側面があるからだ。
書籍を通じて私淑するとき,それがいくらひとりよがりな,権威を借りるものにすぎなくとも,自慢話でもしない限り誰も馬鹿にはしないし,実生活の交流に影響を与えることは考え難い。
しかし,SNS時代にあっては,特にFaceBookの近況に象徴的なように,太鼓持ちのような行動をしていたり,節操もなく「いいね!」ボタンを押していると,すぐに他の人にもバレてしまう。そのような人が,仮に本心で私淑するつもりで,有名人をフォローして,その話をとくとくと話しても,誰も心が籠っているなどと思わないであろう。
私淑することと,実生活の付き合いが分断されているならば,仮に実生活の付き合いが心が籠っていなくとも,私淑することの意義は変わらない。しかるに,SNSにおいては,他の人に対する態度もまた,私淑することの本気度を図られる面があり、恐ろしいことには誰もただしてくれない。

だが,これは健全なことかもしれない。私淑することは,生身の師匠よりもより自分を律する必要がある。SNS時代にあって私淑することが独り善がりではなく、他者に批評されているのであり、会うことのできない人間を、他者がある程度肩替わりしてくれるのだから。

自分が良いことをいいながら相手にされないとき、本当に私淑したといえるのか考える契機になりそうだ。

プロフィール
星出 光俊(ほしで みつとし)

東京・銀座(新井・小口・星出法律事務所)で弁護士をしています。一般民事を担当しており,特に医療系の訴訟や労働訴訟を多く取り扱っています。経済学部卒ということもあり,本ブログでは,法律問題のみではなく法と経済学に近い,問題から先に何があるのかを考察していきたいと思っています。




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東京・銀座(新井・小口・星出法律事務所)で弁護士をしています。一般民事を担当しており,特に医療系の訴訟や労働訴訟を多く取り扱っています。経済学部卒ということもあり,本ブログでは,法律問題のみではなく法と経済学に近い,問題から先に何があるのかを考察していきたいと思っています。